麻酔科医の「専門性」、周麻酔期看護師の「存在価値」〜麻酔科・前編〜
ペインクリニック、産科、小児、心臓―麻酔科医に専門性が要求されるようになっている。千船病院で力を入れているのは「産科麻酔」。専門性の深化と共に、麻酔科医が手掛ける分野も広がっている。そのため麻酔科医は慢性的に人不足なのだ。麻酔科医不足の解決策として注目されているのが、周麻酔期看護師である。
千船病院の麻酔科の奮闘を追った。
千船病院麻酔科医師、村松愛の朝は早い。
朝5時に起床。2人の子どもの準備を済ませ、6時前に名古屋市内の自宅を出る。名古屋駅から新幹線に乗り新大阪駅へ。通勤客で混み合い始めた大阪環状線、阪神電車なんば線を乗り継いで福駅で降り、千船病院には8時前に到着する。
「大阪は都会すぎてびっくりしました。環状線がすごく混んでいるんです。最初は人混みに圧倒されました」
最近は押しのけて座ることが出来るようになりました、というのは冗談ですと村松は明るく笑う。
夕方5時に勤務が終わると、すぐに病院を飛び出して、早足で福駅へ。車内からスマートフォンで新幹線を予約。夜7時過ぎに自宅に戻り、前夜から準備しておいた夕食を作る。食後、子どものピアノの練習に1時間付き合い、10時頃には就寝する。
2022年4月からこんな生活を週3日送っている。
「最初は週4日勤務でした。そうしたら千船病院のみなさんが子ども(の世話は)、大丈夫かとか気を遣ってくださり、週3日になりました。(就業時間も)本当に5時ぴったりで送り出してもらっています。職場の協力がなかったら、この働き方は絶対に無理でしたね」
村松は父親が医師だったこともあり、ごく自然に名古屋市立大学医学部に進んだ。麻酔科を選んだのは母校の体制が関係している。
「患者さんの全身管理がやりたかったんです。そのために集中治療を習得すべきだと考えました。名古屋市大では集中治療イコール麻酔科。麻酔科がICU(集中治療室)を全部みていたんです」
集中治療室とは人工呼吸器の他、各種モニターや記録装置を備えた病室で、重症患者を収容、集中的な治療を行う。
「ざっくりした説明をするならば、集中治療というのは、患者さんの痛みを取って、長時間全身管理するんです。重症患者の麻酔がすごく長く続くという感じです。だから麻酔科がICUを管轄、管理するのは理にかなっていると思っています」
母校の大学病院などで働き、村松は集中治療専門医の資格を取得。次に頭に浮かんだのが、産科麻酔だった。
「集中治療をやっていると、お母さんと赤ちゃんのどちらも助けなければならない周産期の患者さんの特殊性を痛感しました。その中で産後に重篤な状態となった患者さんを診る機会もありました。(産後の)大量出血で、心臓マッサージをしながら運ばれたお母さんもいました」
名古屋市立大学附属病院で働いていた頃、産科麻酔を学んできた先輩がいた。「彼女の知識量と技術は並外れていた。やっぱり麻酔には専門性があるんだと思いました」
麻酔科の中で専門分野 ―サブスペシャリティ、とされているのが、「ペインクリニック」「心臓」「小児」そして「産科」である。
「産科麻酔の難しさは、母体と赤ちゃんの安全を考えなければならないことに加えて、妊婦さんの基礎疾患、(妊娠)週数によって扱いが変わることです。そして出血が激烈。産科の先生は赤ちゃんを取り出すこと、子宮に集中している。(妊婦の)全身管理をしてコマンダー、指揮官になるのは麻酔科医であるべきと考えています」
それまで順調であっても、妊婦の様態が突然急変することもある。
「誰がそうなってもおかしくない。そして、(患者は)若い。いわば社会の財産ですよね。だから産科麻酔を学びたいと思ったんです」
麻酔を使用した出産 ―無痛分娩にも興味があった。なるべく数多くの妊婦を扱っている病院で働きたい。まずは旧知の女性医師がいた大阪大学医学部附属病院の門をたたいた。すると、彼女から「大阪市内でうちよりも3倍ぐらい(出産を)やっているところがある」と教えられた。
それが千船病院だった。
「麻酔科の医師は手術におけるキャッチャーのようなもの」
村松を受け入れたのは、千船病院麻酔科部長であり、人材開発部長の奥谷龍である。奥谷も修羅場をくぐってきた麻酔科医だ。
奥谷は兵庫県三田市で6人きょうだいの末っ子として生まれた。きょうだい仲良く助け合えばいいという父親の方針で、誰もなっていなかった職業 ―医師となるため兵庫医大に進んだ。麻酔科を選んだのは、はっきりとした理由があったわけではない。
「卒業したとき、兵庫県で麻酔科医は10人ちょっとしかおらんかったと思います。外科の先生と話したとき、麻酔科なんかはいいんじゃないかって。ぼく自身、ちまちましたことが好きやったんで、なってみようと」
診療科によって医師の性格は大まかに色分けされる。例えば、外向的で体育会系の外科、内気で文化系の内科という具合だ。その中で麻酔科医は、個人主義、一匹狼であると評される。病院に所属せず〝フリーランス〟として活動する麻酔科医も少なくない。奥谷は半分当たっているけれど、半分違うと言う。
「麻酔科の医師というのは手術という大きなフィールドの中のキャッチャーみたいなもの。少年野球だとピッチャーから、やりたい人間がポジションを選んで決めていくじゃないですか? 最後に残るのがキャッチャー。でもキャッチャーって、全部のポジションを俯瞰してみることが必要です。監督でもキャッチャー出身が多いし、すごく重要性が高い。外科みたいに華々しくはないかもしれない。でも深みのある味わいのある科なんです」
奥谷が兵庫医科大学病院の集中治療室にいた2005年4月、JR福知山線脱線事故が起きた。3次救急医療機関である兵庫医科大学病院には次々と怪我人が運ばれてきた。
「最初は何が起こったのか分からなかったんです。次から次へと(怪我人が)たくさん運ばれて来ました」
すでに事切れている人間も少なくなかった。その中の1人に肋骨が折れて肺に突き刺さった20代の男性がいた。心肺停止状態だった。
「胸を切って、心臓を露出させて直視下、つまり自分の目の前で心臓をマッサージしながら、肺に突き刺さった肋骨を取り出すんです」
リズムをとりながら、心臓が動いているかのように押す。血液を流せば、体内組織への損傷は最低限で済む。そして、点滴を打ちながら、折れた肋骨を取り除いた。
「最悪の場合は脳死、そこまでいかなくとも非常に深い傷が残ることもあります。そうしたら(彼は)フルリカバリー(完全回復)されたんです」
福知山線脱線事故では乗客と運転士合わせて107人の死者が出た。彼は108人目とならなかったのだ。
取材・文:田崎健太 写真:奥田真也