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【後編】地域を持続的に支えられる〝脳神経外科〟体制をつくる

2025.10.10 特集 一次脳卒中センター

「バカヤロウ。そんなことで脳卒中センターができるか!」

 2020年4月、千船病院にやってきた榊原が手始めにやったのは、救急隊や近隣のクリニックへの挨拶まわりだった。体制を強化して積極的に受け入れる方針であることを伝えると、たいていは「助かります」と喜ばれた。

 むしろ壁があったのは院内の体制だった。挨拶まわり効果で件数が増え始めた時期のある日の午後、脳出血を疑われる患者の受け入れ要請がきた。榊原が手術室にいくと、麻酔科医が「今埋まっている。他の病院に転送してほしい」と拒否。口論になった。

「バカヤロウ。そんなことで脳卒中センターができるか!」

 大声を出したが、麻酔科医も譲らない。榊原は仕方なく転送の準備を始めた。

 そこに駆けつけた樋口の証言だ。

「麻酔科の先生は患者の安全第一で、予定外の対応を行うことによって生じる様々なリスクは避けたい。一方、榊原先生は運ばれてくる患者へのスピーディな治療を第一に考える。両方とも真剣だから自然に声が大きくなったのでしょう。結局、麻酔科の先生に折れてもらい、受け入れてもらうことにしました」

 脳卒中の患者を受け入れるという、病院の方針が伝わると現場も軟化する。この一件以降、麻酔科も柔軟に対応してくれるようになった。

 榊原はこう語る。

「私は別に大変じゃなかったですよ。苦労されたのは、樋口先生を含め千船病院の幹部たちでしょう。いろいろ調整に骨を折っていただきました」

 特に看護部では、人員配置を大きく変えて、脳卒中患者に対応した。榊原自身の負担も相当なものだ。PSC認定要件の1つは、脳卒中診療に従事する医師(専従でなくても可。前期研修医を除く)が24時間7日体制で勤務していること。この要件を満たすため、週2日は当直に入った。1日は兵庫医科大学から応援に来てもらえたが、あと4日は外科や内科の当直医に任せ、榊原自身はいつでも駆けつけられるように待機していた。

「脳卒中で運ばれてくるのは、せいぜい夜11時まで。それ以降は発症してもご家族が寝ていて気づきません。気づくのは起きてからなので、朝6時ごろの搬送が意外に多い。夜中はお呼びがかからないから、普通に寝ていましたよ」

 本人はケロリと語るが、週6日は当直あるいはオンコール状態。PSCは榊原のハードワークなしに立ち上がらなかったことがよくわかる。

 その甲斐あって認定が下り、手術件数も増えた。2019年は約40件だったが、2020年は80件と倍増。手ごたえを感じた榊原は、「人がいればもっと患者さんを受け入れられる」と医局に増員を要請。2年目はさらに医師が1人増え、実際、手術件数は120件まで伸びた。

 ただし、榊原のマンパワーに依存していたことは否めない。榊原が、2022年に兵庫医科大学に戻ると、途端に手術件数が減った。

 この事態を受けて、榊原は2023年4月に千船病院に戻ってきた。現在、PSCをふたたび軌道に乗せるべく奮闘中だ。

 単に元に戻すだけではない。2021年9月に榊原は、兵庫医科大学でカテーテルの修練を積み、カテーテル専門医の資格を取得した。専門医になれば、詰まった血管にカテーテルを入れて血栓を除去する脳血栓回収療法を行える。脳血栓回収療法は、t – PAの適応外や投与後に効き目がなかった症例に適応できる。

 榊原の目線はあくまで高い。 

「カテーテル中心の時代になっても、自分はやはり手術が好き。個人的には、またどこかに国内留学して腫瘍の手術を学びたい。そのためには、私がいなくても千船病院脳神経外科が地域を持続的に支えられる体制をつくる必要があります。まずはそこに全力投球です」

 榊原がふたたび去るときが、千船病院脳神経外科が真の意味で脳卒中に関して地域の基幹病院になるときなのだろう。

取材・文  村上敬 写真 奥田真也

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